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2005
3/7 (月) 53 |
今回は文章に関する事柄ついて綴りたいと思います。
ちょうどタイミングよく、御連絡を頂きましたので、記載済みの文章に言葉を追記して掲載する事になりました。 新たに内容を追加していますので、文章の繋がりが上手くいっていない所があると思いますがご了承下さい。 以下 「はじめに」の文に関する所では、「運びとなるに至りました」の所ですが、一般的に厳密に?は「運びとなりました」です。「活動行っている」の所ですが、一般的には「活動している」の方が良いと思いますが、こちらはどちらも良い様な気がします(個人的)。この他にも、句読点の位置や文脈等の表現が、通常の社会のよく見かける文字そのままとはなっていませんがご了承下さい。 今回掲載の文は、私が書いたそのままの文を使っています。コラム文もそのままを使って掲載しています。 間違っている言い回しも私がそのままに表記をしています。 今回ある意図があり、普通掲載しないと思われる展覧会会場掲示文「はじめに」を、しかも1ヶ月前から掲載させて頂きました。 芸術家と文 私は、以前興味があり、西洋の先人芸術家の文を読んだ時、その人を感じる崩れた?癖の様な言い回しにその人を感じる事が出来て、感動したのを憶えています。 その流れを直接真似るという訳ではありませんが、癖のある文が表現出来れば何と素晴らしいか、と思った事もあります。 それ以降、大きな間違いは抜きにして、出来る限り自分そのままを少しでも残していきたい、と思う様になりました。コラムは自分の言葉が綴れればと、そのままに自由に訂正せず書いています。今読むと・・・善し悪しは抜きにして何とも言えないものを感じます。 私は今回の様に「運びとなりました」が直に浮ばない事が多々ある人間です。自分の中でそれが当り前の様に平気に書いてしまいます。誰かが指摘してくれないと気付かない才能があります。 私は、結局は誰かに観てもらわなければ簡潔に伝わる文章も書く事が出来ない人間です。 今回の言い回しは私の中では短い方ですが、確かに簡潔ではないです。しかしこの言い回しに自分が出て、しかもよく表現されている様な気がしています。 私自身、頑張って生きてそして亡くなった方々の言い回しや様々な癖のある物で、微笑みもします。それはある意味、彼等にしてやられているのかも知れませんが、万人に共通の言い回しよりそちらの方に微笑みます。 私個人の無頓着な言い方かも知れませんが、芸術をやっている人間なので、ここはこれでよしとしている所があります。 それに芸術家は、こんなもんじゃなければと思う所もあります。 「はじめに」の文章で、結果的にこういう内容に触れる事が出来ました、感謝しています。(笑顔) 追記 下記は、数文字で完結する文章をあえて下記の様に綴ったモノです。 (注意:もし、"頭が痛くなったり精神にざらつきを感じる様でしたらすぐに読むのを止めて"、貴方の身近にある物体を見つめて、それの事を何でも良いですから"楽"に考えて下さい。) 「この筆を持ち描くという行為を行うとする方向に向かおうとする行為は、自らを表す為に現れる自分を洗う行為に似た行為に似ていると自ら思いその行為を行為する自分が筆を持ち行うという行為を行い思い描くという行為に行為しようとしている時、球という立体を平面に描く行為を行おうとする自分は、立体という名の世界での球という立体に立体という球が立体として存在して球とするという立体と似て否なるを否とする立体としての球を描くという立体行為から、円を描くという行為が立体としての球に変換する過程での円に球としての存在としての立体を与え円を球にする為にそれに与える立体行為の中での矛盾は、立体世界での球を円としての立体と捉える行為に円の集合を球とし、立体世界での平面という世界の疑似立体にすべく行う行為を加算して行く行為の円の集合立体は、球と円の両方を兼ねる疑似立体とも呼ぶべきを立体世界から見た時の球という事も可能であるという行為をせずして立体とならないという発見に辿り着いた時、初めて矛盾の中で円を描くという行為が立体世界での平面世界における立体球と認知される現存唯一の平面立体球であるという事が、この蓄積行為が立体世界の中での矛盾の約束として存在している円という球だと知るが、この行為の矛盾に気付くという行為をしている自分の行為は円を球と見せるという行為を行う行為と似て否なる行為であると言うには、これを書き記している自分は端から平面と立体の矛盾を知りつつ綴っているという行為に気付いているという行為を加味すれば、否では無いという事となる。人は矛盾という事に気付いているという行為をもって初めて矛盾という中の矛盾を創造仕始め、そこから出た結論を真実として証する生き物であり、全てが始まって以降において真の真たる真は"矛盾"という唯一の真実のみであり、矛盾を矛盾と捉える行為をもって全てが保たれているに過ぎないと思っているこの行為は、筆を持っていない行為から始まった行為である」。 あまり意味の無い文です。平面を描く人間にとってこの類いの矛盾は存在し続ける為、いつか何らかの結論をだしてみたいが、この空間の果て(外)を知る術も無いので何とも言えません。おそらく知っても何も出ないと思います。空虚な理論上、手元の方で果てを知る事も、どこかのことわざの例えとして存在していますが、現在の所この事には当てはまらない様な気がしています。平面の歴史は、矛盾という庭を塗りつぶして来たに過ぎない。 口直し。「?」 |