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2003
6/20 (金) 25 |
この国では現在迄、絵を描くに基本的に必要な「物を観る目」を本当の意味でも指導出来ているとは言えません。正確に言うと、分かる分かった人だけが得る世界にしています。そして万人が物に迫った真実に近い「線」なり「三次元を二次元」に表現出来る、そしてその意味を指導するには至っていません、何故でしよう・・・。おそらく表現出来る様になった人はその事を、本当の意味する所を、指導しない方が自分の地位を守れるからと言っても言い過ぎではないでしよう。英語でもそうですよね、皆を話せる様にしたら教える意味が無くなり、学校の英語教師がぐっと減るでしよう。(電気自動車にしたら、ガソリンスタンド廃業みたいなモノです)つまり絵に関して本当の所は指導してこなかったのが事実です。私はそれに意義を唱えます。この国の芸術を信頼できるモノにする為に、理想は全ての人がモノを描ける目を持って頂きたい、そしてその一般の知識と目が、この国の美術を改善するのに必要だと考えているのです。
モノを観る事を身に付けるには越えなければならない幾つかのハードルが存在します。天才はいません、天才とはこの内面のハードルを飛び越して行く力なり、タフさが養われているだけの事なのです。 御存じかと思うのですが、絵を描き始めた初心者が幾らモノを描いても子供っぽい形になって、そのモノの形にならない、形がとれないという事が有りますよね、この状態を指導する際、教える側には学校の勉強を本当の意味でクラス全ての人に指導できる能力が必要になってくるのです。つまり(こういう表現は非常に嫌いだが)勉強の出来ない人を出来るように指導している一般教員がこの国に何人いるのだろうか?、本当の所、実はすべての人を出来る様にする事が可能なのです。ただこの世の中、教師が自分の時間や意志意欲を犠牲にしてまでクラス全ての人を出来る迄指導しないだけの事で、やろうと思えば本当は出来るのです、全ての人を上達させる事が・・・。モノを描く事もそれと良く似ています、最初から描ける人もいればそうでない人も・・・(別に最初から描けるから良いと言う事もないが)。そしてそこの所は実は、描く技術的な事ではなく内面による要素が大きく影響しているのです、このところをその人に合った指導で行っている人はほぼいないでしよう。モノを描いてある絵を観るとその人の内面が垣間見れるのです、そこを当たり障りの無い様に、その人に合った形で解きほぐして行くと、子供っぽい形から本当にモノに迫った絵が描ける様になるのです、これは本当です。 では何故、絵を習った皆がモノを描けるようになっていないのでしよう、ズバリそれは、そこまで指導するのを辛がっているのです、そして人間だから、自分を凄いと思われたいのも少し有るでしょう。 余談ですが、モノが描けると言う事は良い事かもしれないです。この様に例えた人がいました、裁判官がモノを描けなかったら、もしその裁判官が死刑の判決を下した時、それは犯罪と言える側面があるかも・・?。医者もモノが描ける方が患者としては安心して手術を受けられるかな・・?、余談です。(私としては、あまりこの例えは薦められませんが)。 私は万人にモノが描けるようになって頂きたいと願っています。それは一般に言うマリア的な愛情からのみではなく、以前から述べている様に、ウソの純粋芸術の流れを改善する為に・・・、多くの人が描ける様になってしまえば・・・、描ける訳だから、妙な経歴で芸術を束縛されなくなり、観る目も付いてくると考えています。ただここで間違ってほしくない事は、「こっちの方が時間をかけているから良い、丁寧だから良い」みたいな間違ったモノとしての方へ行ってしまうと、また「アカデミック」を作ってしまいます、それはダメです。 音楽は良い世界を築き上げて来ましたよね、CDを購入する時、音楽学校で習ったかどうか等で考えたりして購入なんかしないですよね、これが当たり前なのです。曲を聞いて、そのミュージシャンが学校で習っているから、隣のより良いなんて言っちゃったらその人間性疑いますよ、本当に。映画を観るのもそうだし、芸人の世界でも、面白いと思っているから笑うのです。今の日本の美術の状態は、これがなっていないから国(民族性)の信用にもかかわると言ってるのです。 実は江戸時代迄はこれが出来ていたのです。 妙なしがらみ無しに純粋に美術が存在していました。 それ以降、変わってしまった要因は、ある一部の学校崇拝、観る側の目よりそっちの方を重視してしまったのです。これを行ったのは当の本人(画家)とそれを持ち上げた評論家、メディア。この事によって美術界はその類いの人が形作って行くという偏見の絵画史が始まってしまったのです。 分かりやすく言います、この国の現状ではゴッホは出てきません、おそらく誰も見ないし、気づかないでしょう。この作家が何故「ゴッホ」としてもてはやされているか分かるでしょうか?、それは本当の意味で「真の作家、芸術家」だからです、妙なしがらみは不要なのです。 話はズレましたが、非常に強引に言ってしまいます。「この国の美術の為にも、出来る限りの人達にモノが描ける様になって頂きます。」そして追記すると、その方が何かと良い面があるかも?知れません。 |
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2003
5/24 (土) 24 |
美術界の幻想、画家という概念を壊します。油彩画がもたらされて以来、画家という存在?が純粋芸術の先導者として無言の圧力をもって存在?してきました。新たに生まれてくるそれは、再び深く考えもせず蛇の道?を引き継ぎ、まやかし?の流れを形作ってきました。当時は(今もそうですが世の中に幾ら素晴らしい逸材がいようともいなくとも、それは「箸にも棒にもかからない」という愚行な考えで切り捨ててきたのが真実です。評価する側は権力に弱く、ある流れを引き継いでいないと観る気もないという偏見が今でも色濃くあるのが、唯一と言っていい程この世界だけです。
私は最近実感しました、この腐った状況を改善し新たに流れを形作るには、大衆の知識や観る目といったモノでなければ不可能かもしれないという事を。つまりそれ方面の判断者は同じ流れを創るだけで何も変わらないという事。 爆弾発言をします!。 この国には絵を描いている人がとても多くいますね、趣味の人達から志を持った人達まで・・・、ズバリ言います、「絶対にこの国の美術の流れに組み込まれません」(1頭を投じれません、それを考えていようがいまいが・・・)。 もっと分かりやすく伝えます、音楽(Music)の世界では路上で自分の表現したい事を伝えていた人達が日本のMusic界に刻まれる事が歴史的に観てもありますよね、美術界では端から見向きもされていません、一生懸命、命を描けて創り伝え続けてもそれです。音楽の世界の美**ば*さん素晴らしい歌を残して下さりましたよね、もしこの方を認めない世の中だったらどうしますか?・・・、そんな世界なら潰して新しく作り替えていいですよね・・・。現に山*清さんや池***夫さんは様々なメディアでは取り上げられては来たけど本当の所は認められていません、この事は許しがたい暴挙です、私は尊敬もし、作品も素晴らしいと感じています。 なぜこんな世界なのかズバリ言います、それは観る目の曇った百科事典が特別視する愚行の目で表記し謁見しているからです。 画家という表現自体、まやかしを生んでいます、なぜなら平面という1ジャンルが偏見というアカデミックを生み、そこによってきた人達が崇高さを感じその人達を偉人化するから、その存在はある流れをふまないと存在すら認められないという事になるのです。 なぜ変えようとしてこなかったのか?、それはその人達が認められた?という事に満足を感じ、同じように認められた?人達と「やあ、やあ、どうも」の世界で愚行を守ってきたからです、変革しようとすればおそらく自分の地位は無くなるでしょう。 芸術(命)にもし尺度を持とうとするなら腐ったアカデミズムの目では決して観てはいけない事、切り離さなければならないという事。 今も沢山の人がこの世界で伝えたくて表現し、生まれては亡くなっています、このままでは今後も再認識される事はないでしょう。毎年沢山の人が画家という有りもしない幻影に進路を向けて進んできます。 この国の美術を人間の命の重さの価値において標準化します。 追加 |